雨の日は、本の匂いが強くなる。
私は古本屋の奥で、雨に濡れた本を乾かしていた。先ほど、中年の男性が段ボール一箱分の本を持ち込んできた。遺品整理だという。受け取る時、その中に一台のフィルムカメラが紛れ込んでいることに気づいた。
「あ、これは…」
「ああ、それも一緒にどうぞ」
男性は疲れた様子で言った。
「父が写真を撮るのが好きだったもので」
私は思わずカメラを手に取った。見覚えのある機種。カナが使っていたのと同じモデルだ。レンズを覗き込むと、かすかに埃が舞う。
「写真、お好きなんですか?」
声に振り返ると、男性が戻ってきていた。さっきまでの疲れた表情は消え、どこか期待を含んだ眼差しをしている。
「いえ、私は…」
言葉が途切れる。私は写真を撮る側ではなく、いつも撮られる側だった。それも、ある特定の人に。
「すみません」
男性は私の様子を見て、急に申し訳なさそうな表情になる。
「勝手なことを言って。写真って、時々人を困らせますよね」
その言葉に、私は思わず目を上げた。
「父は」
男性は古い文庫本を手に取りながら続ける。
「最期まで写真を撮り続けていました。でも、誰にも見せなかった。現像もせずに」
私の胸の中で、何かが共鳴する。
「もしよろしければ」
私は自分でも驚くような言葉を口にしていた。
「このカメラ、私が預かってもいいですか?」
男性は少し驚いたような、でも何か理解を示すような表情をする。
「ええ、もちろん」
その日から、私は雨の日に限って、そのカメラを磨くようになった。レンズを覗き込むと、不思議と心が落ち着く。撮影することはないのに、シャッター音を確かめるために空押しをする。その音が、記憶の中の誰かの声と重なる。
「美咲さん」
ある雨の日、男性が再び訪れた。手には一枚の写真。
「父の遺品を整理していたら、現像していない最後のフィルムが見つかったんです」
その写真には、夕暮れの駅のホームが写っていた。
「父が最後に撮った写真です。でも、何を撮ろうとしていたのか…」
私は息を呑む。その構図、その光の角度。まるで、あの日のカナのように。
「きっと」
私は言葉を探す。
「何かが終わる前の、最後の瞬間を撮ろうとしたんだと思います」
男性は静かにうなずく。
「そうかもしれません。父は『光の記録係』って呼ばれていたらしくて」
「光の記録係…」
その言葉を繰り返していると、不思議と胸が温かくなる。
「実は」
男性は少し躊躇いながら続ける。
「父の写真展をやろうと思っているんです。最後の…いや、新しい始まりの写真展として」
窓の外では、雨が少しずつ上がっていく。光が差し始めた店内で、私たちは父親の残した写真について話し合った。その会話の中で、私は気づいた。人は誰かの中で生き続ける。写真の中で、記憶の中で、そして誰かに語り継がれる物語の中で。
「美咲さんも、何か写真を…」
私は首を横に振る。
「私は、光の記録係になれません」
そして、少し間を置いて付け加えた。
「でも、物語の記録係ならできるかもしれない」
男性は柔らかく微笑む。
「それも、光の記録の一つですよ」
その言葉に、私は思わず目を閉じた。まぶたの裏に、様々な光が浮かぶ。カナのカメラのフラッシュ。夕暮れの駅のホーム。雨上がりの本屋の中。そして、目の前の人が持ってきた一枚の写真。
それらは全て、誰かの中で永遠に残り続ける。たとえ現像されなくても、たとえ言葉にならなくても。
「では、写真展の準備を…」
私は、かつてカナから教わった言葉を思い出していた。
「光は記憶を運ぶ」
そう、私たちは皆、誰かの光を運ぶ者なのかもしれない。それぞれの方法で、それぞれの形で。
窓の外では、雨上がりの光が、濡れた街を優しく照らし始めていた。
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