しんと張り詰めた寒空に、夕陽。多摩川の端の上を電車が走る。その隙間、隙間に赤。夕陽の赤。
中央線よあの子の胸に突き刺され、なんて、いや、京王線かこれ。なんにしろこの景色はぐっと来る。今日の夕陽の色はほんとに綺麗だ。あかね色、つうの? なにかを懐かしんでいるようなあの色。まったく。感傷に浸るほど余裕のある訳でもないのに、センチメンタル過剰で困る。
電車が走るのを仰ぎ見て、差し込む光がまぶしくて視線を落とす。ふと歩いている二人に目が留まる。隙間なく、寄り添いながら歩きあう少年少女。思う。俺は考える。この二人にはどういった色に見えてるんだろうね、この夕陽は。
さて、俺にはあなたたちの事情も背景もわかんないからさ、全くの想像でしかないわけだけれども、君たちは大変に幸せそうだ。その川べりを歩く姿、とても幸せそうに見える。あなたたちはこの景色をずっと憶えているんだろうかね? それもなんら日常の毎日のことで、なんら特別に思えるわけでもなく、いつか忘れてしまうもんなんかな?
俺は、そうやな。たまにさ、あなたたちのそうやって歩く姿をさ、思い出したりするんだろうと思う。いや、違うか。寄り添って歩きあうあなたたちの姿を、かつてあの人と寄り合って歩いていた俺と重ねて、それを時々思い出したりするんだろう。あのときの俺と、大好きだったあのひとは、あなたたちのように幸せな二人に見えたのだろうか? なんてことを浮かべながら。
思う。俺は明確に思い出す。俺はあのひとを背中に背負って、夕陽の下を歩いて、走り行く電車を仰ぎ見てた。俺はそのときとても幸せだったように思う。
あのひとは、どうだったろう? 頼りのない、勢いだけの若造の背中に乗って、それでもいつものようにぼんやりと笑って、あすこに歩きあう少女のような目をしていたのかもしれない。柔らかな、ふわふわとしたものに包まれているような人だったからな、そんな顔しか思い浮かばないだけなのかもしれないけれど。
俺は今もはっきりと思う。俺は幸せだったし、満たされていた。あの人を担いで仰ぎ見た電車と夕陽。どうしようもなく綺麗で、このまま世界が全部赤くなったまま止まってしまうんじゃないかなんて、そんなことすら思っていた。
ずいぶんと、歳の離れたひとだった。俺や、あの人と同い年ぐらいのはずの大人たちがバカ騒ぎするのを、いっつも柔らかく笑って見てたひとだった。
付き合えるなんて夢にも思わなかったし、相手にすらしてもらってねえなんて思ってもいたから、あのひとから「私、好きなんだって知ってた?」なんつう言葉を貰ったときは死ぬんじゃないかなとまで思った。一瞬、意味がわからなくて「は?」なんて聞き返したぐらいに思考が停止してしまっていた。そん時もぼんやりと笑って俺のこと見てたな。バカみたいだけれど、本当にあの困ったような笑顔しか思い出せないぐらいに、本当にいつもいつも笑っていた。
指に触れた違和感に、最初は気づかない振りをした。後になって思えば、あれはあの人なりの警告だったのだろう。分かっていて気付かない振りをした。
あの人に好きって言った。あの人もそう言ってくれた。なにしろ俺は随分と若かったし、勢いだけはあった。何よりも負けたと思いたくはなかった。俺はあのひとが好きだし、あの人もそうだって言ってくれた。これは事実でなんの揺るぎもない。頭を抱いて懸命に撫でて、呪文のように繰り返した。目の前の事実だけでいいんじゃないかって思った。
何回目かに手を握ったときに、あの人はやっぱりぼんやりと笑いながら、薬指につけていた指輪を俺の手に渡して言った。
「あのね」
「うん、まあええよ。ええって言うか、あの、全部言わんくても構わんから。なんつうか、それはまあ真奈美さんがええならなんでもええことやから」
「私はいいもなにも、ね。断ることも出来たわけだし、てっちゃんに言ってることが全部うそになるわけじゃないしね。それでも嘘に聞こえてしまったら、それはもう仕方のないことなんだけども」
「や、うん。いいなら俺もそれはそれとしてほかしとくから、今思ってることとかだけ言ったりやったりしてや。やー、ね、目の前にいるだけで幸せやって」
「じゃあ指輪はずして会うのはもう止めるね。もうてっちゃんはそのこと知ってる。それでもそう言ってくれるんなら他のことはどうでもいいことだしね」
どうでもいいことなんかないって思うのは簡単で至極当然のことだし、あの人に「そう言ってもいいんだよ」とはっきりと言われた。それでも、俺はあの人が結婚しているということを事実として知って、その上で他のことをどうでもいいものとした。
元より長く生きる気なんて無かったし(ほらあれだ。30までに死んでやる!ってやつ。若者が必ずかかる流行病みたいなもんだ)、元々、雲の上のひとなんだ、これだけでも上出来なんじゃねえかって、俺は好き、あの人も好きだって、じゃあいんだよなんて、勢いなのかバカなだけなのかよく判らない思考で結論付けた。とはいえ、今も同じ答えを出すんだろうな俺は。結局はバカなだけなのかもしれない。
別にそういうことがあって、何かが変わったわけでは無かった。あのひとはいつものように笑ってバカ騒ぎを見ていたし、いつものように俺と遊んでいたし、いつもの時間にあの人の家へと帰っていった。ひたすらに、確認するかのように、毎日何度も何度も好きって俺に訊いた。そのたびに俺も好きやと答えて笑った。頭を抱えて撫でた。今までと何も変わることはなかった。
付き合い始めて最初の冬の終わりに、いつものように帰り道を一緒に歩いていた。その日はあのひとがなんか早く帰らなきゃいけない日かなんかで、ちょっと早めの時間にいつもの道を歩いて帰っていた。
確か、俺は病弱に見えてもちゃんと力あるんだぜ的な話になって、じゃあおぶって帰るわなんて言い切って、なんだ? しっかりしてるぜ俺はみたいなところを見せたかったのだと思う。
その頃はとにかく必死だったのかもしれない。あのひとはいつもぼんやりと笑って俺を見てくれていて、子供扱いされたことはなかったけれども、対等というか、少しは俺を頼ったらどうなんだみたいなところはあったのかもしれない。ともかく、背負って帰ることになった。
そのうちに、なんかもう俺はこのひとの全部を背負って一生生きていけるんじゃないかとか、気だけは大きくなってきて、このまま連れて帰ってしまえばええやんとか無謀すぎる企みなんかして、夕陽も綺麗だし、よくわからんけどいい気分だしいい雰囲気だしで、なんかこれはもうタイミングは今しかないんじゃないかと思って、あの人に言った。
「なあ。俺は思うんやけどな。今、このまま真奈美さん帰さんやって、そのままどっか行ってしまおう思ってんねやな。いやちゃうねん、わかってんねんで? この時間には帰らなあかんことも全部分かって、そんでも思って言ってんねん。な、電車な、ほら見えるやん? あれあれ。あれ乗って行くねん」
「うん」
「俺はまだ若いしな、結構働けると思うねん。もうな、馬車馬ちゃうんかってぐらい働く。ほんでな、もしかしたらそのうちにぽーんとええ曲とか書けてな、めっちゃ稼げるようになるかもしれん」
「うん。そうだね」
「ほんでな」
「うん」
「なんやろ? なんかまあ行けるって思うねん。行ける言うか、なんつうかこのまんま連れて逃げてしまっても結構大丈夫やないんかなってな」
「うん」
「な、電車な。あれ乗ったら誰も知らんような遠くに行くねんで? こうやって歩いて帰られへんような遠いとこな。すごい思わん?」
そこまで言ったところで、何も言えなくなってしまった。頭には限りなく浮かんでくるようなのに、その実、全てが適当で、うわっつらだけのヘラヘラした言葉で、どれを出してもその場しのぎでしかなくて、次の手も打てないまま、あのひとの微かに笑う肩を、背中いっぱいに受けていた。
結局、背中にあのひとを乗っけたまま、あのひとの、や、あのひととあの人の旦那さんが住む家の近くまで歩いた。
家に向かって歩いている間中、俺がいつもあの人の頭を抱えてわしわしと撫でるように、あのひとが同じように撫でてくれてくれていた。
俺はついに「一緒に逃げような」の一言も言えずじまいだった。勇気がなかったのか自信がなかったのか子供なだけだったのか、その全部だったのかどれでもなかったのか。何ひとつ言えずじまいだった。
「そういうもんだって。ね。私、好きだからね。じゃあまた明日」
そういい残してあのひとは家への方へと戻っていった。
振り返って、ふわふわと笑って、いつもの困ったような笑顔で手を振って。しっかりと薬指に指輪をつけた手を振って。
俺もいつもの道をひとりで戻って。夕陽はもう沈んですっかり夜だった。全くいつも通りの帰り道だった。
どこか遠くへも行けずに、結局、旅行へ行く電車にすらも乗れずじまいで、俺とあの人は終わってしまった。俺は、最後にあの人を見送るまでは、俺は常にいつもいつも幸せでいられたと今でもしっかりと思える。連れて逃げていれば、なんてことはさすがに思わなかった。だからこそあの時に見た夕陽を、電車の走る姿を、赤く染まった世界を、今でもいとおしく思い出せるのかもしんねえな、なんてな。
ヘイ ヘイ 鈍行列車 列車
スロウライダー ヘイ ヘイ
ヘイ ヘイ 特急列車 列車
ファースター ファースター ヘイ ヘイ
さて少年少女。あなたたちは今きっと幸せだ。それが過ぎ去る日や、これ以上育たなくなってついには投げ出す日、なにか別の嫌な思い出に摩り替わってしまう日、そんな日が来ることがないように願う。今、あなたたちが見ている世界はとても綺麗だ。幸せなあなたたちと等しく、綺麗だと思う。この景色を忘れることのないように、願ってる。
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