アリカワさんが不穏だ。
別にイワシを食いちぎって吉凶を占うことをしていたり、怪しげな祭壇を作り、奉ったりしているわけではない。なにか、なんとなしに日常の動きが不穏なのだった。僕が声をかけても反応は薄く、まだ肌寒い春の始まりとあいまってとても寒い。板谷くんに至っては挨拶すら交わしてもらえないと嘆いていたのであった。常に相手にされていない山之内さんのことを含めて考え出すとキリがない。男性陣のあれこれは無視するとして、アリカワさんと仲の良さげな由佳ちゃんはどうなのだろう。出掛けに用事が重なったので道すがらそんなもやもやを聞いてみることにした。
「あんな、アリカワさんのことなんやけどな」
「アリカワさん? 由佳、よくしてもらっとるよ」
「いやそんな娘とお父さんの会話みたいなことをしたいわけやなくてな、なんやこのごろ変っていうかな、こう、いや前からああいうすーんとしたとこはあったんやけど、なんつうか、ここ最近さ、特に魂抜けてるような感じで」
しばらく頭に人指し指をあてて考えたのち、由佳ちゃんは毅然として言い放ったのだった。
「わかった! 店長なんかしたんや」
「いや、わかってない。なにひとつわかってないわ。わかってない上に誤解までしとるわ。いっこも手出してないし、いつもの調子でなんか言ったわけでもないねん」
「ほんなら、いや、うーん」と言ったまま由佳ちゃんは固まってしまい、このままではお互いの約束の時間に遅れてしまいそうだったので、適当な話をして濁したのだった。ダメだ。なにひとつ情報が増えない。同居人ズのホシちゃんは常にどこにいるのかわからんし(たまに夜の公園で黄昏ているのを見かける)、ウメちゃんは日の当たるところで見られた試しがない。なんや。アリカワさんは夜の眷属かなんかで、あの二人を暗躍でもさせとんのか?白くて綺麗やしな。その線もあるかもしれない。いやないか。
用事を済ませて夕方、肉屋のコロッケを大量に買って帰ると、階段に腰掛けて空を見上げているアリカワさんがいた。綺麗だ。いや、そういうことではなくて、今まで見たことのなかった彼女の姿に目を奪われる。凛としていて物静かで、所作のひとつひとつに無駄のないと思わせる彼女らしくない、なんというか、少女のような無防備さがそこにあった。その目は、季節にしてはちょっと早すぎる蝶を追っていた。夕陽に染まった空を泳ぐように飛ぶ蝶は、まるで誰かの追憶のように儚くて、その下で白く美しい彼女の横顔が切り取られている。なぜか急に不安になって口を開く。
「アリカワさん。あっこでコロッケ買ってきたんやけどいる?うまいよ」
軽口を叩くと、彼女は少し驚いたように振り返り、それから静かに微笑んだ。その表情には、穏やかさの中に、夕暮れという時間のせいだろうか、どこか深い物思いの色が混ざっているように見えた。
「ありがとうございます。でも、今日は遠慮させていただきます」
「そうかい?がっこのほう、忙しそうやけどあんまり根詰めすぎんようにね。あ、あと男手必要なときは板谷くんか僕に声かけるんやよ」
「はい。ではまた」
と短く言い残し、まるで僕という人間を認識していないように二階に吸い込まれていってしまった。心ここにあらずという感じだ。穏やかというよりも魂が抜けているような気さえする。おいしいコロッケでもあかんかったか。それとも僕が知らず知らずのうちになんかしでかしたのかもしれない。そうだったとしたらなんとかしなければ。そうでなかったとしてもなんとかできれば。アリカワさんには迷惑かもしれないが、僕にとってはさくら荘の住人で、家族だ。
「板谷くん、アリカワさんについてどう思う?」
「すきっす」 板谷くんからホームラン級に頭の悪い回答が返ってきた。コロッケを頬張りながらってところが最高に頭が悪い。面白いな。「や、それは知ってんねんけど、そういうことじゃないわ。僕も大好きやけど」
「ええっ」 「や、それは別にええがな。だいだいあれだけ綺麗な子ならみんな大好きやろ。山之内さんすらアリカワさんだけには特別扱いしとるような気する」
「ですよね。なれるなら俺、ホシちゃんになりたいっす。あんなひとと一緒に暮らせるなんてそんなのずっと嬉しい…」
「ホシちゃんが部屋におるの想像できひんけどな。あれはな、笹船や。いっぺん流したらもう眺めるしかできんし戻ってこん。ほんなん言うならウメちゃんになってしまったらええんちゃうん」
「あのひとは… あのひとだけはちょっと…」 「なんや?差別か?」
「違います! むしろ安達さんに仲疑われるぐらい仲いいじゃないですか」
「そやんな。結婚しなよ」
「無理です。あ、でも一日だけ入れ替われるんならいいな。そしたら押し入れからずっとアリカワさんを眺めて…」
「相当に気持ち悪いな。押し入れってのがまたじめっとしてて」
「ですよね。ウメちゃんだったらもっとからっとしてますもんね。アリー、ごはんつくってーとかって。いいですよね。兄弟みたいで。あ、姉妹って言わないと怒られるか」
やっぱりそやんな。次見かけたらそれとなく聞いてみようか。以前は二人でキャッキャ言いながら笑いあう姿もよく見かけた。ウメちゃんにならなんか話してるかもしれない。
「そういえば安達さんが『今日は元カノとデートやねん!』ってウッキウキになって出掛けた日あるじゃないですか。夜中にすごいしょんぼりした顔で部屋来た日。びっくりするぐらいしっわしわになってて」
「あったな。あったさ。思い出させんな。で、あの日がなんやのん」
「バイトから帰ってきたら踊り場のとこでふたりが揉めてる、揉めてたのかな? わかんないんすけど、なんかちょっと二人ともらしくないぐらいワーワー言い合ってたんですよ」
「ほんまに?」
「ほんまにです。俺も遠巻きに見てただけなんでなに話してたまではわかんないですけど、いつもの二人じゃないみたいになってて。なんか見ちゃいかんもん見てしまったなって思って固まってたら俺に気付いたみたいで、ふたりともスンってなって帰っていきました」
なにかあった。なにかはわからないが確実になんかあったのだろう。早急に確かめるべきなのかもしれない。「板谷くん、ちょっとウメちゃんとこ行ってくる。残りは山之内さんとわけわけしとき」と言い残し、ウメちゃんの働くお店へと向かったのだった。
ウメちゃんは川べりをちょっと裏に入ったとこにあるお店で働いている。ほとんど口をきかないまま行方知れずになった(お互いに、だが)母親が働いていたお店の近くだ。子供のころはこの近辺で行く宛もなくうろうろしていた。この川べりで友人と朝まで語り合ったこともある。好きなひとになにも言えなくて川に石を投げこむだけだったこともある。ライブの打ち上げと称して一晩中花火を打ち上げてみんなで騒いだこともある。でもあまり行きたくない場所だ。子供のころに戻ったようでなんか心細くなってしまう。あれだけいいことがあっても塗り替えられない記憶があるのだろう。ひとりで行くのをどうしても避けてしまう。
やがてウメちゃんの店の前にたどり着く。ママ、ごめん、ウメちゃんいる? あの子、裏よ。ありがとね。と店の裏に回ると、裏口の短い階段にちょこんと腰かけてタバコを吸うウメちゃんがいた。これも「らしくない」。ウメちゃんならすぐに僕を見かけ、どしたのー? こんなとこ来ちゃって、とカラカラと笑うだろう。強く問いただすつもりだった。なにあったんや、と。あの子になんやしたんか?と。そんな勢いはウメちゃんが吐き出した煙とともに消え失せてしまった。
「俺も一服しよかね」 「あ、てっちゃん。どうしたの?しょんぼりしちゃった?」
「ちゃうちゃう。ちょっとウメちゃんと話したくなっただけでな。帰りしなや」 「そう? なんかあった?」
「うーん。なんやってことやないねんけどさ、アリカワさんとなんかあった?」と声に出すと、煙を吐き出すよりも重く感じた。空気がまとわりつく。多分、たぶん、なんかあったのだ。きっと二人とも今は「らしくない」。
「なんかあったとして、それ、てっちゃんに言うこと?」 「なんや? あたりキツくないか? らしくないで」
「らしいってなに? いつも笑ってろとでも言うの? あたしだって笑ってられない日もあるわよ。だいたいアリだって…」と口を固く結んでしまった。
「ごめん。まずはデリカシーなかったこと謝るわ。そやな。なんかクサクサするなーって時、誰でもあるもんな。僕もみんなに対してぞんざいすぎたなって反省するときある。ごめんな」
咥えたままのタバコの灰が重くなって地面に落ちた。二本目のタバコを咥えるウメちゃんに火をつけたライターを差し出す。深く吸い込んだ煙を吐き出したあと、ウメちゃんは言った。
「こないだアリと言い合いになったの」 「そっか。理由聞いてしまってもいいかい?」
「しまってるじゃん」と言ってウメちゃんは自嘲的に笑った。
「てっちゃんにはアリがどう見える?」 「穏やかでいつも勉強頑張ってる綺麗な子、やな」 「そうよね」 「そうやな」
「押し入れの天窓? だっけ? あるじゃない? 蝶の標本があったの。すごい綺麗な箱に入ってて、でもホコリかぶってしまってて。で、アリに『こんな綺麗なもの出さないの勿体ないよ』って言ったら、なんでこんなもの見つけたのってそこから言い合いになっちゃって。その場は出してしまってごめんねって謝って終わったんだけど、なんかそれからぎくしゃくして、話せば言い合いになって」
「そやったんや。そっか。まあでもひとには触られたくない、やわらかい場所っていうんかな、そういうのあるからな。ウメちゃんにも僕にもあるもんや。怒るのもしゃあない」
「うん。あたしもそう思って謝った。そういうことじゃない、ってアリは言ってたけど。」
「そういうことじゃない、か。なんか抱えとって重いもんがあるんかな。蝶、なあ」
「あ、そうや。そういえば今日の夕方、アリカワさん、階段で蝶見とったわ。なんかな、剥き出し、っていうんかな。いつもはこう、うっすいけど絶対に破れない膜みたいなもんがあって、ある程度の距離までしか近寄れん感じなんやけど、夕方のアリカワさんはそういうのがなんもない感じやった。触ったら壊れてしまいそうなって伝わっとる?」
「うん。わかるよ。てっちゃんはわからんかもしれんけど、アリ、子供みたいな女の子だよ。よく泣くし、よく笑う。ホシと二人でよくかわいいねーって言ってるもん」
「想像つかんな。そっか。あれや。ウメちゃんに甘えとるだけや、きっと。ウメちゃんとおると、ホシちゃんとおるとアリカワさんは楽な気持ちでおられんねん。ウメちゃんもそやろ? でな、楽やからな、素っ裸の気持ちでおってしまうんや。多分やけどな、なんか恥ずかしかったんやと思う。蝶の標本、な。大事にしまってあったんやろ? 大事やってん。ホコリかぶっとったんは自分から隠したかったんちゃうかな。押し込んで忘れようとしとったんやろうと思う。僕もよくそうする。やから恥ずかしかってんな。自分の弱点、目の前にぶらつかせられてほらーってさ、されたら誰でもワーってなるさ。ぎくしゃくしとんのはアリカワさんもどう接したらええのかわからんようになってしまっとるだけやと思うよ、たぶんやけど。お互い素っ裸で暮らしとったらそんなこともあるもんや」
「はあ。よくそんな長々と… おじさんは話長いってホントよね。てっちゃんも少しは自覚したら?」
「でも、ありがと」と言い残してウメちゃんは店に戻っていった。おじさん、か…
その日、夢を見た。懐かしい夢。僕は河原で蝶を追いかけていた。やっとの思いでアゲハチョウを捕まえ、かごのなかに入れる。そのころの僕にとって一番綺麗で価値のあるものが蝶だった。宝物を手に入れた僕は座っていたおんなのひとのところへ走っていく。黒い服を着た綺麗なおんなのひとがその蝶を見て、言う。
「綺麗な蝶ね。てっちゃん、ありがとね」
綺麗なおんなのひとは母だった。存在しない記憶。抱えたことのない宝物。捕まえられた試しのない、蝶。
「アリカワさん、おはよ。僕もそこまで出るからちょっと話してええかな?」 「はい」
起きた時にさてどうしたもんかと考えあぐねたが、どうしていいものかさっぱりわからないままお昼ご飯を食べに宇宙軒に行こうと玄関を開けると、階段を降り切ったところのアリカワさんに出くわした。うまいことできとる、と神に感謝し、話したい旨を伝えた。よかった。なにも見なかったかのように通りすぎられてしまうのかと思った。でもなにを。どこから。
「昔な、昔なって話し出すのおじさんやと思うけど、まあ聞いてよ。うん。子供のときな、蝶を売ろうって思ったことがあんねん」
「蝶を」
「うん。そんときの僕にとって蝶が一番綺麗で一番価値のあるもんやったからな、よし、売ってお金にしよう、と。いいもん食おう、と」
「おかしなこと考えますね。あ、でも子供のときか。子供のときって突拍子もないこと思いつきますもんね。で、どうなったんですか?」
「それがな、そっからは憶えてないねん。近所のおっさん、や、昼間っから酒飲んでふらふらしとるような駄目な感じのおっちゃんがおったんやけど、そのひとと話したことは憶えてんねん。けど、そっからはさっぱり。酒でも飲まされて記憶失ったんかな…」
綺麗な女の子から笑い声が聞こえた。よかった。喜んでもらえた。自分の持っている蝶の記憶。夢の、存在しない記憶ではなくて、なんの教訓も得られなく、悲しくも切なくもない、蝶の記憶。
「や、昨日な、やー、なんか盗み見したみたいで申し訳ないけどな、アリカワさん、蝶眺めてなかったか?」
アリカワさんはあ、と短い声を発し、恥ずかしそうに薄く笑った。見えない薄い膜がなくなった気がした。ウメちゃんが言っていた「子供みたいな女の子」がそこにいたのだった。
「安達さんは蝶が好きだったんですよね? わたしもです」
「そっか。蝶、綺麗やもんな。ひらひらしてて、ドレスみたいで。あ、あれや。男の子はひらひらしとるもん追いかける習性があるからスカートのほうがモテるって誰かが言うてた。そうか。本能なんやな」と言ってふたりで笑った。剥き出しの笑顔だった。僕も、アリカワさんも。
「祖父が蝶の研究をしていたんです。わたしは祖父のあとをついていつも走り回ってました。安達さんはおばあちゃんっ子だったと山之内さんに聞きましたが、わたしはおじいちゃんっ子だったんです。祖父が好きでした。祖父が好きな蝶も」
「うんうん。わかるよ。ええおじいちゃんやったんやね。でもかっこええな。研究者かー。見たことないような蝶の標本持ってそう。アリカワさんも見せてもらったことあるんちゃう?」
「はい!」と聞いたことのない大声でアリカワさんは答えた。「実は…持ってるんです。綺麗な蝶の標本。アナキシビアモルフォっていうんですけど」
「アナキシ… 舌嚙みそうな名前の、あ、モルフォ蝶か。聞いたことある!見たい! 見せて!」
「あるかなー。もしかしたら無くしてしまったかもなので期待せずに待っててくださいね」といたずらを企んでいる女の子のようにアリカワさんは笑ったのだった。そうやって僕は宇宙軒に向かい、世界一おいしい豚バラ定食を食べたのであった。山之内さんはもう豚バラ定食なんて重くて食べられないですよーと言っていたから、僕は山之内さんの側ではない。その思いとかわいらしい笑顔を胸に抱いて僕は帰路につくのだった。
いいもの。宝物。蝶。僕たちには「いいもの」が必要だ。「いいもの」があるから、あることがわかるから笑っていられる。日常は平坦な戦場で、僕たちは戦っていかなければならない。鎧を着込んで。強くあらねばならないと。きっと僕もアリカワさんもみんな、薄い膜に守られて立っている。倒れてしまわないように。薄い膜がなくても息ができるように、そのために「いいもの」があるんだと僕は思っている。
春の風が吹いていた。力強くもやわらかな春の風が。桜の花びらがひらひらと舞っている。蝶がひらひらと舞うように。
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