ヒポクリスト・マトリーファズ

 うまく眠れやしない。
 ここ最近の眠りといえば、意図しない短続的な眠りが不意に、全く望まない形で訪れるだけである。道を歩いている途中であったり、仕事の打ち合わせ中などに、1の羅列であるべきのデータの中にエラーでゼロが紛れ込むような、そんな意識の剥離だけが断続的に行われている。その間はただ真っ白なだけで、すうっと時間だけが、目の前の景色だけがするりと抜けてしまっただけのように感じる。眠りという認識が希薄すぎる。
 必要でないから眠れないと思えば、幾分かは楽に過ごせるのかもしれない。
 だが、日々には脳みその組織をフル動員させなければならない労働があり、混濁した状態では戦力外通知を待つより他に無くなってしまう。なによりも書くことを止めたくはない。生活が出来なければ、書くことも出来なくなってしまう。睡眠は俺にとって全く不必要にしか思えないが、必要悪として鎮座している。目の前に生活がある限りは。
 眠りを、生活のための眠りを。体も脳みそも眠りを欲しがっては居ないのは明白で、景色の断絶が行われるよりは、悲痛な景色すらも逃さず見続けていたいと願っている。俺はずっと起き続けていたい。
 眠らない体が欲しい。労働をこなしても、ひたすらに書くガッツが欲しい。俺はただ、書くことによって自分を救済したいだけだ。俺が望める精一杯の幸せはそれ以外に無い。
 しかし、今日も朦朧としながらデータのやり取りを眺める。この状態で労働を続けるより他に生きる道はない。日々、ただ日々。物語にもならない日々だけが続いていく。
 
 予期せぬ眠りと、焼けるような胃痛が訪れる。同僚がいるというのはまことに有難いもので、打ち合わせの途中で給湯室に向かったまま帰らなかった俺を、手を引いて病院まで連れて行ってくれた。職場では既に三回目だ。
 混濁した意識の中で、色のない視界の中を同僚に手を引かれ歩いていく。細かい粒子のように視界が歪んでいて、雨が降り注いでいるように見える。夜か昼かもさだかではない、黒一色の版画のような視界だけが拡がっていた。
 雨降ってる? 降ってないですよ。そう、ありがとうね。少し目を瞑るから座れるところまでお願いね。
 「わかりました。もう少しですから」理解のある同僚に恵まれてよかったと思う。
 平坦であるはずの道が坂道であるように感じる。歩きたくないのだなと直感的に思う。目を瞑った黒い世界に、真っ赤な蝶が飛ぶのが見える。網膜が見せるただの記号かもしれないが、蝶だと思うことで歩みを進める。追いかけていけばきっと辿りつくのだろう。辿り着く先は病院に違いないが、物事を少しでもロマンティックに仕立て上げてやりたい。もちろん、自分のためにだ。愚かな俺のためだけに、ただ物語を書く。

 淀みとまどろみの中で会話を試みる。視界は無いに等しいにしろ、俺は自分の足で歩かなくてはならない。語らなければならない。
 ねえ? 蝶は好きかい? 虫は嫌いですけど、綺麗ですよね。うん、蝶はね、綺麗だ。
 童話かなにかでさ、蝶に導かれて迷いの森を出ましたってさ、そういうのあるじゃない? 今そんな気分。次に目を開けたら花が咲き乱れていたとか、いいよね。
 はは、なんか、ちょっと子供をおぶって帰り道を歩いてるみたいですよ。おぶられて、気が付いたら自分の部屋だったとかいうの、無かったですか? ああ、テレビかなんかでしか見たことないよ。ずいぶん幸せな風景かもしれんね。することも、されることも、もうないだろうけどね。

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