「書店員こそが特別な仕事でなくてなんであろう。書店員は棚に魔法をかけることができる」
音楽を辞めて路頭に迷っていた僕を拾ってくれたおっちゃんの言葉だ。彼がこの世を去ってしまってずいぶん経つ。彼の残した店が更地になってしまった今でも、本を触るたびにその言葉が頭の中に響いてくる。
古い友人が「ちょっと長い旅に出るから」とミカン箱ひとはこほどの本を置いていった。俺が死んだらこの本たちをお前が相応しいと思うひとたちに渡してくれ。縁起でもないし、本を置くスペースもない。だいたい僕自身も自分が死んだらどうすんねん? なんて本がそこかしこに積みあがっている。相応しいひとに、か。大事な本やろうしな。ほんな今度、美咲さんとこに半分ぐらい持っていこうか。この「深夜特急」なんかハードカバー版の全揃いでお店には嬉しい入荷なんじゃないか。なんて、様子を見に行きたいだけの苦しい言い訳と一緒に本を取り出し、一冊一冊確かめるように床に並べていく。
管理人室の隅に小さな本棚がある。本棚があるのになぜ数々の本たちが床に置かれているのかは聞かないでほしい。一旦、が永遠に続いているだけのことだ。かつて、のび太少年は言った。わかりやすいように置いてあるだけだよ、と。あのメガネ、うまいこと言うな。そう。一見、乱雑に見えるこの収納(収納?)も理に適っているのだ。
話がそれた。僕が生活するこの部屋の隅にある、カラーボックスひとつぶんぐらいの小さな本棚。この本棚には、由佳ちゃんが昔に読んでいた本たちも含めて、背表紙の高さもまちまちに、出版社から作者までてんでバラバラに並んでいる。彼女が本を手に取りに来るから、なんて云えば「テツヤさんって本当に優しいんですね」と想像上の誰か(希望としてはアリカワさん)が褒めてくれそうな気もするが、実のところは自分にとっての大きな意味があるのだった。
「店長、まった散らかして」
あれ?もうそんな時間か。今朝も由佳ちゃんがあきれ顔で部屋の前に立っている。小窓から差し込むあたたかい朝日が、古ぼけた本の背表紙を似つかわしくないぐらいに優しく照らしている。
「ちゃうねん」 「違わないでしょ。でかい本棚作るねんって言ってたのはどうしたん? 散らかし放題じゃん」
「ちゃうねん… や、のび太がな、これは散らかってるんじゃなくて、並んでるんだと」
わかったわかった、と由佳ちゃんは子供をあやすように言って、本棚の前にしゃがみ込んだ。一冊の本に手を伸ばす。村上春樹の『ノルウェイの森』。初めて手に取った「大人の本」といつか言ってたのを思い出す。春樹か。俺も好きよ。大人って感じでええよな、と話しかけるでもなく言葉が出る。本屋のときの癖が抜けない。それ、いい本ですよね。かつての由佳ちゃんに、かつての僕の選んだ大好きな本を手に取ってくれた友人に伝えるように。
美咲さんもそんな「僕の勝手な友人」のひとりだった。おとなしい、物静かな感じの女の子でよく本を手に取ったまま佇んでいた。なんかその姿が大事な誰かと話しているようであまり声をかけることはなかったのだけども、数年後にひょんなことで再会し、今では懇意にさせてもらっている古本屋の店主さんだ。ひとは通り過ぎてくもんだけど、こういうびっくりプレゼントもあるからな。世界は美しい。
ノルウェイの森を眺め終わった由佳ちゃんが口を開く。
「店長のとこってほかの本屋さんと違ってなんかぐちゃぐちゃしとったよね」
「店入ると変なにおいするとか言われとったしな」
「そうだったかもしれん。いや、そうじゃなくてあの店、すごい探しにくかったなって」
「ええっ! 十年越しの悪口?」と軽口を叩く。もちろん悪口とは思ってない。僕の並べた本棚があるお店に来てくれたひともよく言っていたことで、自分でもそう思う。本棚には作者も出版社も、書籍だって、漫画だって、旅行の本やレシピ本、本だけじゃなくてCDや雑貨が本当に好き勝手に並んでいた。それは僕の、僕を本屋にしてくれたひとが教えてくれた大事なルールだった。一冊でもそこに置けばどんどん拡がっていくから、それを感じるままに並べていけばいいよ。俺たちは世界の入り口を示すだけでいいから。最初は意味がわからなかった。でも本を置き始めて、もちろんずいぶん経った今でもよくわかる。きっと。だからこそ「また本屋やってよ」と言われるぐらいに店が愛されたのかもしれない。
「ほんと本を探すのには向いてないお店だったよ。でもわたしの欲しい本はすぐ見つかった。どんどんどんどん見つかってしまって店から離れられんようなったよ」
「由佳ちゃんもそやし、みんなそう言ってくれたの僕にとってめっちゃ財産やよ。宝物や。本屋やってよかったなって」
「まだ通い始めぐらいの頃に店長に聞いたことあるけど訳わからんこと言ってたよね。それぞれが呼び合ってるからって。だからそういう並びなんだよって」
「それはびっくりするな。僕、そんな宗教みたいなこと言っとったっけ?夢の話とかそういうんやないん?」
「ちがう!でも面白いなーって思って。誰かが『本が呼んでる』って言っとったけど、ほんとだなーって。今もそう思ってるよ」
由佳ちゃんの言葉にたくさんの宝物を抱えていた時代を思い出す。「本屋やらんか?」と言われて右も左も、商売のいろはすらも分からなかった僕にそのおっちゃんは「だから書店員には棚に魔法がかけられる。でもそれは、本を愛する人にしか通じない魔法なんだ」と。
美咲さんのお店に行くと、棚に懐かしい、あたたかい魔法を感じる。きっと彼女は本を並べる時に声が聞こえている。本と本の間に流れる声を。目には見えない繋がりと、その物語を。
「由佳ちゃん、今度のお休みさ、本屋行かん? ちょっとええお店があんねん」
「いいね!どんなとこ?」
「『記憶の棚』っていうな、ほら、こないだも遊びに来てくれたあの美咲さんのお店。古本屋さんやってんねん。や、あの子、実はな、うちの本屋で…」
言葉を続けようとした時、管理人室のドアが大きくノックされた。なんやなんや。トイレ詰まったとかか? とドア開けると、なにやらやけに嬉しそうにした山之内さんが立っていた。
「おおやさん! あれあれ由佳さんも一緒ですか。相変わらず仲良しですね。仲良きことは美しき哉。いやそんなことよりね、昨日ね、面白い写真を見せてもらったんですよ、嶋田さんっていう方から。あたしんとこのお客さんなんですけど」
写真? なんやろ? と少し驚いて、由佳ちゃんの方を見ると、今度は床に散らばっていたはずの『深夜特急』を持って表紙を見つめている。いいやろ? その表紙。めっちゃわくわくしてくるやろ。夜明けを感じさせる表紙に朝日が当たり、白いフォントで書かれた文字がかすかに光っている。深夜特急、と。
「沢木耕太郎の深夜特急、ですね。懐かしい。あたしたちが学生のころにはね、みんなこの本を読んで海外に憧れたもんです。由佳さんも旅に出たくなっちゃうんじゃないですか? こんなおおやさんみたいなひとと遊んでる場合じゃないですよ。旅にでましょう!」
この本を運んできたあいつもこれを読んで旅に出ただろう。山之内さんもそうだったように、出会ったことのない、懐かしいみんなも。きらきらした瞳で山之内さんの話を聞く由佳ちゃんも、もしかしたら。
棚には確かに魔法がかけられる。でも、その魔法は本棚の中だけで完結するものじゃない。本を手に取る人、その本を大切に思う人、そして本を通じて繋がっていく人々。それぞれがお互いに呼び合って繋がっていき、その全てを包み込んで、初めて魔法は完成する。たくさんの小さな奇跡が集まった大きな魔法。物語。
今日も誰かが、美咲さんの未来の友人が、あのお店で本を手に取っているだろう。その友人は、その棚にかけられた魔法にきっと気付くだろう。本棚に並ぶ本たちが静かに、でも確かに語りかけてくることに。 彼女の店はきっとそんなお店だ。
というか写真の話はどうなったんすか、山之内さん…
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