金沢の繁華街、スクランブル交差点に立っていると、時間の流れが不思議な形を描く。昔ミスタードーナツがあった場所には今、派手な看板を掲げた古着屋が建っている。変わってしまったものと、変わらないものが混在する街並み。それは、プログラムのバージョン管理のように、古いコードと新しいコードが混在する状態に似ている。
そこで目が留まったのは、花が咲いたような柄のワンピースを着た女性だった。見覚えのある佇まい。唇に光るピアスが、街灯に反射して小さな光点を作る。声をかけようか迷っていた時、彼女と目が合った。
「もしかしててっちゃん?」
その声を聞いた瞬間、記憶の中の断片が一気に繋がった。カエルのような、でも不思議と心地よい声。ライブハウスのステージで、マイクを握りしめながら歌っていた少女の姿。あの頃は、その声に合わせてギターを弾くのが俺の日課だった。音が少しでもズレると、聖一に叱られた。「お前、トダの声が聴こえてないだろ」。そう言われるたびに、必死で耳を澄ませた。今でも時々、深夜のコードを書いている時に、あの頃の音が蘇ってくる。バグを見つけた時の「あ」という小さな声が、トダのボーカルと重なる。
「やっぱりトダか。声聞くまで確信持てんかったわ」
「てっちゃんこそ、随分変わったね。昔はもっとひょろひょろしてたのに」
彼女の言葉に、思わず苦笑いがこぼれる。確かに、プログラマーとして働き始めてから、運動不足解消のためジムに通うようになった。体型が変わるように、人生も少しずつ形を変えていく。でも、変わらないものもある。例えば、深夜に目が覚めて、無性にギターが弾きたくなる時間。そんな時は決まって、未解決のバグを抱えている時だ。
突然、彼女が近づいてきて、俺の唇のピアスに軽く触れた。
「これ、お揃いにするって言ってたよね。覚えてる?」
その仕草があまりに唐突で、昔の彼女らしくない気がした。トダは聖一の恋人で、誰に対しても優しかったけど、決して軽率な態度は取らなかった。いや、そう思い込んでいただけかもしれない。十六の俺には、彼女の全てが完璧に見えていた。聖一との関係も、ステージでの姿も、日常の仕草も。今になって思えば、それは俺の中で美化された記憶なのかもしれない。
「もうトダじゃないの。スミタニアヤコっていう、こんな女になっちゃった」
その言葉に、時間の重みを感じた。プログラムをデバッグする時のように、一つ一つの変数の変化を追っていく。トダが、スミタニアヤコになるまでの過程を。でも、人生はプログラムとは違う。変数の変化を完全にトレースすることはできない。
「待って。スミタニって…晴ちゃんと?」
彼女は首を横に振った。その仕草は昔と変わらないのに、意味するものが全く違っていた。
「ねえ、この雨が上がるまで、どこかで話でもしない?」
アヤコの声には、かすかな切迫感が混ざっていた。昔から彼女は、本当に大事な話をする時、少し声を震わせる癖があった。プログラマーとして働いていると、そういう些細なパターンに敏感になる。バグの予兆のように、人の感情の機微も見逃せなくなる。
近くの喫茶店に入る。かつてバンドのミーティングでよく使っていた店は、もう無くなっていた。代わりに入った店の窓際の席で、俺たちは向かい合う。アヤコは相変わらず、カップを両手で包むように持っていた。その仕草だけは、十五年前と寸分違わない。
「聖一さん、亡くなったの知ってる?」
唐突な問いかけに、コーヒーカップを持つ手が止まる。知っていた。でも、葬式には行かなかった。理由は、自分でもよくわからない。メールで訃報を受け取った時、返信すらできなかった。その夜は徹夜でコードを書いた。バグだらけのコードを。まるで、現実から目を逸らすように。
「ああ」と答えるのが精一杯だった。
「私ね、聖一さんが亡くなった後、すぐに結婚したの。スミタニって人と。でも、それは逃げだったのかもしれない」
窓の外で雨が強くなっていく。街灯の光が雨粒に反射して、無数の光点を作る。まるでデバッグコンソールのログのように、過去の記録が次々と流れていく。
「バグを見つけた時って、てっちゃんはどうするの?」
突然の質問に、少し戸惑う。「まあ、原因を特定して、修正して…」
「私ね、人生のバグを見つけたの。聖一さんが死んで、それまで信じてた全てが間違ってたんじゃないかって。だから必死で書き換えようとした。新しい変数で上書きしようとした。でも」
アヤコの目に、涙が光った。
「でもね、どうしても消せないコードがあるの。聖一さんのこと。あの頃のライブハウスのこと。てっちゃんたちとの思い出。あのね、聖一さんが最後に言ってたの、知ってる?」
首を横に振る。
「『俺がいなくなっても、音は鳴り続けるから』って。最初は意味がわからなかった。でも今なら、少しわかる気がする」
アヤコがバッグから小さな紙切れを取り出す。それは、あの頃のライブハウスのフライヤーだった。端が少し焼けていて、インクも薄くなっているけど、確かにあの日の記憶が詰まっている。
「これ、ずっと財布に入れてたの。スミタニさんには『ただの思い出の品』って説明したけど、本当は違った。これは私の中で、ずっと実行され続けてるプログラムみたいなもの。そう言えば伝わる?」
「ああ」今度は俺が頷く番だった。「システムの核心部分。簡単には書き換えられない」
「そう。だから私、もう逃げるのはやめたの。トダのまま生きるわけじゃない。でも、アヤコとして、あの頃の音楽も、思い出も、全部抱えて生きていく」
「私ね、離婚したの。半年前に。スミタニさんはいい人だったけど、私の中の古いコードを理解できなかった。そして私も、新しい自分になりきれなかった」
雨の音が、二人の沈黙を優しく包む。その音は、昔のライブハウスでよく聴いた、アンプのノイズのように心地よかった。
「てっちゃんは、どうして音楽、やめちゃったの?」
その質問には答えを用意していたつもりだった。いつか誰かに聞かれることを予想して、幾度となくシミュレーションを重ねていた。でも、実際に問われると、用意していた言葉は全て使い物にならなかった。
「なんていうか…」俺は言葉を探る。「プログラムってさ、書いた通りに動くんだ。意図が明確で、結果が保証されてる。でも音楽は…」
「違った?」
「ああ。音楽には、制御できない何かがあった。感情とか、魂とか…そういう曖昧なものが」
「でも、プログラムだって、思い通りにいかないことあるでしょ?」
「それは…」
「バグがあったり、予期せぬ動作があったり。でも、それを直していくのが、てっちゃんの仕事なんでしょ?」
アヤコの言葉が、胸に刺さる。確かに、プログラムだって完璧じゃない。むしろ、バグがあるからこそ、俺は必要とされている。音楽だって、そうだったんじゃないか。完璧な演奏を目指すんじゃなく、不完全さの中に美しさを見出すことが、本当は大切だったんじゃないか。
「私ね、また歌い始めたの」アヤコが言う。「小さなライブハウスで。今度来てくれない?」
その言葉に、胸の奥で何かが震えた。
「ギター、持ってないんだ」と言い訳を口にする。
「大丈夫、聖一さんのギターがまだライブハウスに置いてあるの。誰も触れなかったから、ちょっと調子は悪いかもしれないけど」
俺は黙り込む。十五年前に最後に触れたギターの感触が、急に手のひらに蘇ってくる。弦を押さえる指の痛み。フレットを滑る汗。アンプから漏れるノイズ。全てが、まるで昨日のことのように鮮明に。
「無理に誘ってごめん」アヤコが慌てて言う。「ただ、てっちゃんの例外処理も、もう終わってもいいんじゃないかなって」
店を出る時、空には夕暮れ特有の紫色が広がっていた。街灯が完全に点灯する前の、どこか曖昧な明るさ。プログラムでいえば、システムの起動と終了が重なる瞬間。
「考えとく」と言いながら、俺はアヤコに手を振った。
彼女は笑顔で頷き、人混みの中に消えていく。その背中を見送りながら、ふと気づく。俺たちは、ずっとデバッグを続けてきた。でも本当は、バグなんて最初からなかったのかもしれない。あったのは、まだ見ぬ可能性という名の、未処理の例外だけ。
スクランブル交差点に戻ると、人々が忙しなく行き交っている。その中で俺は、スマートフォンを取り出し、長い間放置していた音楽アプリを開く。通知が溜まっている。アップデートが必要だと。
「そうだな」と呟きながら、アップデートボタンを押す。新しいバージョンがインストールされていく間、俺は空を見上げた。まるで、新しいコードが書き加えられていくように、夜空に星が、一つずつ、また一つずつと、灯り始めていた。
その夜、久しぶりにギターの夢を見た。でも今回は、いつもと違った。バグだらけの演奏。でも、その不完全さが、妙に心地よかった。目が覚めた時、枕元のスマートフォンには一通のメッセージが届いていた。
「来週の土曜日、ライブやります。聖一さんのギター、まだ待ってます」
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