窓辺に置かれた古いフィルムカメラが、夕陽を反射して静かに輝いている。由香は手元の原稿から目を上げ、レンズに映る街並みをぼんやりと眺めた。アパートの六階。この高さからは、街全体が記憶の中の写真のように見える。
「もう、この時間か」
机の上には締め切り間近の小説原稿。画面の点滅するカーソルの先で、主人公はまだ、大切な何かを探している。由香は立ち上がり、窓際に歩み寄る。夕暮れの街を見下ろすこの場所は、かつて父の書斎だった。
父は写真家で、この部屋で無数の写真を現像していた。暗室として使われていた押し入れには、今でも微かに薬品の匂いが残っている。由香は時々、その扉を開けて匂いを確かめる。それは彼女にとって、記憶の入り口だった。
「由香ちゃん、また同じ時間に窓の外を見てるの?」
階下に住む山本さんの声に、由香は我に返る。ベランダ越しの会話は、このアパートの日常だった。
「ええ。今日は特に綺麗な夕陽で」
「本当ね。由香ちゃんのお父さんも、よくこの時間に写真を撮ってたわ」
山本さんは、三十年以上このアパートに住んでいる。父の写真を見守ってきた人の一人。由香の原稿の最初の読者でもある。
「山本さん、実は今書いている小説のことで相談が」
「あら、また行き詰まり?」
「いいえ、むしろ溢れてくるんです。父の残した写真みたいに」
由香は原稿用紙を手に取る。そこには、父の写真を整理する女性の物語が書かれている。しかし、それは単なるフィクションではない。由香自身の記憶と、父が写真に収めた他者の記憶が、不思議な形で交差している。
「私ね、最近気づいたの」
由香は夕陽に照らされた原稿を、そっと胸に抱く。
「父の写真には、いつも誰かが写っていた。でも、本当の被写体は、その人が見ている景色だったんじゃないかって」
山本さんは静かにうなずく。彼女もきっと、自分の記憶の中で、若かりし日の父の姿を見ているのだろう。
「由香ちゃんのお父さんはね、よく言ってたわ。『光は記憶を運ぶ』って」
「ええ、知ってます。でも、今まで本当の意味は分からなかった」
由香は再び窓の外を見る。街灯が一つ、また一つと灯り始めている。それは、誰かの記憶が目覚めていくようでもあった。
「でも、今は分かる気がします。父は光を追いかけていたんじゃなくて」
由香は押し入れの方を見やる。
「光の中にある、誰かの大切な瞬間を見つめていたんだって」
山本さんは微笑む。その表情が、夕陽に照らされて優しく揺らめく。
「素敵な物語になりそうね」
「ええ。でも、まだ終わりは見えないんです」
「それがいいのよ。記憶って、終わらないものだから」
由香は再び机に向かう。カーソルの点滅が、まるで古いカメラのシャッター音のように感じられた。画面の中で、主人公はまだ何かを探している。それは物語の終わりではなく、新しい記憶の始まりなのかもしれない。
窓の外では、夕陽が最後の輝きを放っている。古いフィルムカメラのレンズに、その光が静かに降り注ぐ。まるで、これから始まる物語を優しく照らすように。
由香は、キーボードに指を置く。今夜も、誰かの記憶が、新しい物語になっていく。
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