アリカワさんが不穏だ。
別にイワシを食いちぎって吉凶を占うことをしていたり、怪しげな祭壇を作り、奉ったりしているわけではない。なにか、なんとなしに日常の動きが不穏なのだった。
夕暮れ時、さくら荘の階段に腰掛けて空を見上げるアリカワさんを見かけた。普段なら決してしないような仕草だ。物静かな彼女らしからぬ、どこか少女のような無防備さがそこにはあった。夕陽に染まった空は、まるで誰かの追憶のように儚く、その下で彼女の横顔が切り取られている。
「アリカワさん、お茶でもどうですか?」
声をかけると、彼女は少し驚いたように振り返り、それから静かに微笑んだ。その表情には、いつもの穏やかさの中に、どこか深い物思いの色が混ざっていた。
「ありがとうございます。でも、今日は遠慮させていただきます」
その言葉には、いつもの彼女の丁寧さがあった。けれど、どこか心ここにあらずといった様子で、視線は遠くを見つめたままだ。まるで、そこに見えない何かを追いかけているかのように。
最近、アリカワさんの様子がおかしいと気づいたのは、山之内さんが最初だった。
「おおやさん、アリカワさんが変なんです」
「変って?」
「そう、変なんです。あたしの噂話にも全然反応しないんですよ。いつもなら『山之内さん、それは違いますよ』って否定してくれるのに」
山之内さんの声には、単なる噂好きの不満以上の、本当の心配が滲んでいた。さくら荘での日常は、こうした些細な会話の積み重ねで成り立っている。その一つが欠けることは、私たちにとって見過ごせない変化なのだ。
確かに、それは異常事態かもしれない。
由佳ちゃんも気づいていた。
「アリカワさん、最近お部屋にこもりがちやね」
「そう?」
「うん。夜遅くまで電気ついてるの、由佳見てるよ」
由佳ちゃんの声には、年下ながらも年長者を気遣う優しさがあった。彼女の言葉は、さくら荘という小さな共同体の中で、私たちがいかに互いを見守っているかを物語っている。
アリカワさんの部屋の明かりは、確かに深夜まで消えないことが多くなっていた。その光は、夜の闇の中で小さな星のように瞬き、時には揺らめきながら、私たちの気がかりを募らせていた。でも、それは大学院の研究が忙しいからだと思っていた。
「店長、アリカワさんの机の上に見たことない本があったよ」
由佳ちゃんが言う。その声には、何か大切な発見をした子供のような興奮が混ざっていた。
「どんな本?」
「えっとね、『蝶の標本作り』みたいな」
その言葉を聞いた時、僕は思い出した。アリカワさんが引っ越してきた日のことを。
春の終わりだった。桜の花びらが舞う中、彼女は少ない荷物を抱えてやってきた。その中に、一つだけ古びた蝶の標本があった。綺麗な青い蝶。モルフォチョウだったと思う。ガラスケースに閉じ込められたその蝶は、まるで時間さえも封じ込められているかのように、永遠の輝きを放っていた。でも、それは他の荷物とは違って、部屋には飾られることなく、どこかにしまわれてしまった。
「ねぇ、由佳ちゃん」
「なに?」
「アリカワさんに、蝶の話を聞いてみない?」
由佳ちゃんは少し考えて、それから笑顔で頷いた。その表情には、誰かの心の扉を開くことができるかもしれないという期待が浮かんでいた。
「うん。由佳、聞いてみる」
その夜、アリカワさんの部屋から、久しぶりに笑い声が聞こえた。それは小さな音だったが、確かに私たちの心に響いてきた。まるで、長い間閉ざされていた窓が、そっと開いたかのように。
次の朝、アリカワさんは珍しく早起きで、さくら荘の庭に出ていた。朝露に濡れた草花の間を、彼女は静かに歩いていた。
「おはようございます」
「おはよう。珍しいですね」
「はい。実は…」
彼女は少し躊躇いがちに、でも確かな口調で続けた。その声には、長い間封印していた何かが、少しずつ溶けていくような温かさがあった。
「私の祖父が、蝶の研究者だったんです。小さい頃、よく一緒に蝶を追いかけました。でも、大学に入ってからは、なんだか忘れていて…」
アリカワさんは空を見上げた。朝日に照らされた彼女の横顔が、まるで蝶のように輝いて見えた。その瞬間、彼女の中の少女が、かつての追憶とともに蘇ってきたように思えた。
「由佳ちゃんが、『蝶ってきれいですね』って。そう言ってくれて、思い出したんです。私が本当にしたかったこと」
風が吹いて、彼女の長い髪が揺れる。その動きは、まるで蝶の羽ばたきのように優雅で、どこか切なさを帯びていた。
「大学院で研究してるのは、環境生物学なんです。でも、本当は…蝶の生態を研究したかった。祖父の研究を、続けたかった」
その言葉には、長い間心の奥に封じ込めていた夢が、今まさに羽ばたこうとしている予感があった。
「それで、標本の本を?」
「はい。でも、迷ってて。今さら進路変更なんて…」
僕は微笑んだ。窓から差し込む朝日が、私たちの間に優しい光の橋を架けていた。
「いいんじゃないですか?」
「え?」
「さくら荘には、みんな何かを探してる人が集まってくるんです。由佳ちゃんも、山之内さんも。僕も。だから、アリカワさんが自分の道を探すのは、むしろ自然なことだと思います」
アリカワさんの目が、少し潤んだように見えた。その瞳に映る朝日は、まるで新しい夜明けを告げているかのようだった。
「ありがとうございます」
その日から、アリカワさんは少しずつ変わっていった。
研究室の指導教官と相談して、蝶の生態研究を副題材に加えることにしたらしい。休日には由佳ちゃんと一緒に近くの野原に出かけ、蝶を観察するようになった。二人の姿は、まるで姉妹のように見える。時には由佳ちゃんが蝶を追いかけ、アリカワさんがそれを優しく見守る。時にはアリカワさんが熱心に観察ノートを取り、由佳ちゃんがその横で興味深そうに覗き込む。
山之内さんは相変わらず噂話を持ちかけるが、今度はアリカワさんも時々乗ってくる。特に蝶の話題になると、普段は見せない饒舌さで語り出すのだ。その姿は、まるで蛹から羽化したばかりの蝶のように、新鮮で生き生きとしている。
「ねぇ、由佳」
ある日、アリカワさんが由佳ちゃんに声をかけた。夕暮れ時の光が、二人を優しく包んでいた。
「蝶の写真、撮ってみない?」
由佳ちゃんは目を輝かせた。その瞳には、新しい冒険への期待が満ちていた。
「うん!」
二人の姿を見ながら、僕は思う。
人は誰でも、自分だけの蝶を追いかけているのかもしれない。
それを見つけるのに、遅すぎることなんてない。
むしろ、巡り合うべき時に、必ず巡り合えるのだ。
アリカワさんの部屋の窓辺に、新しい蝶の標本が飾られた。
それは彼女が由佳ちゃんと一緒に見つけた、小さな白い蝶。
モンシロチョウ。ありふれた蝶だけど、アリカワさんにとっては特別な一匹。
その標本の隣には、古びたモルフォチョウの標本も置かれていた。過去と現在が、静かに寄り添うように。
「新しい始まりの印」
そう言って彼女は微笑んだ。その笑顔には、もう迷いはなかった。
窓の外では、春の風が吹いていた。その風は、まるで次々と新しい物語を運んでくるかのように、さくら荘の庭の花々を優しく揺らしていた。
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