雨の日は、本の匂いが強くなる。
古本屋「記憶の棚」の入り口で傘を畳みながら、そんなことを考えていた。店の前の路地には水たまりができていて、その中に街灯が揺れている。鍵を差し込んで、シャッターを開ける音が、静かな朝の空気を震わせる。
開店前の準備をしながら、昨日カナから届いたメッセージのことを思い出す。
「美咲の店に、面白い人が来るかもしれない。写真集を探してる人。私が撮った一枚の写真から、何かを探してるみたい」
カナらしい、曖昧な言い方だった。彼女の写真は、いつもそうだ。何かを切り取りながら、同時に何かを隠している。私が本を通じて記憶を集めるように、カナは写真で瞬間を集めている。方法は違えど、私たちは似たような仕事をしているのかもしれない。
午前中は穏やかに過ぎていった。常連の大学生が文庫本を探しに来て、棚の前で長い時間を過ごしていく。彼女は毎週木曜日に来る。今日は村上春樹のコーナーで、『ノルウェイの森』を手に取っていた。
「あの、これ…」
声に振り返ると、入り口に中年の男性が立っていた。スーツ姿で、少し疲れた表情をしている。手には一枚の写真を持っていた。
「カナさんに聞いたんです。この写真に写ってる本屋、もしかしたら分かるかもしれないって」
写真を受け取る。モノクロームの一枚。古い街並みの中の小さな本屋。ショーウィンドウには、色褪せた文庫本が並んでいる。そして、その前に立つ少年。
「ああ」
思わず声が漏れる。
「安達さんの、あの本屋ですね」
男性の表情が変わった。嶋田さん、と名乗った彼は、その写真の少年が自分の息子だと言う。先日他界した父が残した写真のアルバムから見つけたという。
「息子は今、東京で働いています。この写真のことは覚えていないと思うんですが…」
嶋田さんは言葉を探るように間を置く。
「父は、なぜかこの一枚を大切にしていたみたいで」
私は写真をもう一度見つめる。安達さんの本屋。今は閉店してしまったけれど、確かにそこにあった場所。今の私の古本屋の原点でもある。
「実は、その本屋の店長さんとは、今でも連絡があるんです」
嶋田さんの目が輝く。
「今は古いアパートの管理人をされていて。私も時々会いに行くんですが、もしよろしければ」
「本当ですか?」
嶋田さんの声が少し震えた。
「父は、なぜあの写真を…」
その時、店の扉が開く音がした。振り返ると、カナが立っていた。カメラを首から下げて、いつものように少し乱れた髪を整えながら。
「やっぱり来てたんだ、嶋田さん」
彼女は嬉しそうに言う。
「私、見つけちゃったんです。あの日の続き」
カナはカメラの液晶画面を私たちに見せた。そこには「遺跡荘」の前で談笑する人々が写っていた。由佳が山之内さんと話していて、アリカワさんが少し離れた場所で本を読んでいる。そして、その光景を穏やかな表情で見守る安達さん。
「記憶って、不思議ですよね」
カナが言う。
「切り取られた一瞬は、いつの間にか誰かの人生の一部になって。でも、その記憶は別の誰かの記憶とつながって、新しい物語を作っていく」
私は黙ってうなずく。古本屋の棚には、そんな記憶の欠片がびっしりと並んでいる。読み終わった本は、次の読者の記憶となって、また新しい物語を紡いでいく。
「嶋田さん、お時間あれば、お茶でもしませんか?」
私は提案する。
「安達さんの本屋のこと、もう少し聞かせてください。私も、まだまだ知らないことがたくさんあるので」
外の雨は、いつの間にか上がっていた。水たまりに映る空には、薄い虹がかかっている。本の匂いは、まだ店内に漂ったままだった。
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